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              円の凋落ぶり   (2008年6月18日)

 6月5日から6月12日までの一週間程、オーストラリアのシドニーへ行ってまいりました。今回の渡豪で、改めて感じたのは、「円」の凋落ぶりです。具体的には現地の紀伊国屋で購入した日本経済新聞は9・35豪ドル(日本円換算で950円程度、因みにUSAでは3.5ドル=360円でした)、日本食のレストランでは、シーフードヌードル12豪ドル(同1220円)、あげだし豆腐8・50豪ドル(同860円)などです。

 原子力発電に使用するウランなど豊富な資源を武器に好景気が続き国民所得と共に物価が上昇、一方、日本は、景気浮上への対策がなされないまま、リストラ、増税などで国民所得が減少しておりますので、極めて好対照です。日本の政治家もこの現状を国民に伝えないわけですが、預貯金の比率が高い日本人はこの数年間で、知らず知らずのうちに資産が目減りし、海外旅行でも東南アジアや新興国の一部にしか行けない状態になりました。今回の旅行では、先進国のレベルとは言えないほどに凋落した日本の「円」の現状を実感しました。各マスコミはアメリカドルと比較して円高、円安と騒ぎますが、EUを筆頭に他の国と比較して、世界における「円」の実態を報道すべきでしょう。


 

                            船場吉兆の廃業 (2008年6月1日)

 5月23日から一週間、米国・ラスベガスに行ってまいりました。5006室で世界最大を誇るMGMホテルに宿泊し、ホテル内にお店を構えるラスベガスで一番有名な日本料理店「渋谷」で食事をいたしました。その日のお勧め料理である海老(ロブスター)を食事しながら店長と会話をしました。前回迄のブログで何度か触れました「船場吉兆」の問題について店長に聞いてみたところ「日本からの報道で知っております」と前置きをしたうえで「船場吉兆が行った行為は米国では考えられない行為、売れ残った料理はその日のうちにすべて破棄します」と強い口調で語っておりました。 使い回しが発覚した当初は「もったいない」という気持ちもあったのではと理解しておりましたが、日本の料理店、もしくはそれ以上に厳しい米国の料理店の管理体制を聞いていると、私の考え方が甘かったと感じました。スイスの大手金融機関であるUBSでは国籍が無い(スイス人で無い)人間を入社させないなどあらゆる面で厳しい管理体制を敷いております。船場吉兆では事件発覚後に社員から様々な発言がありましたが、多くの社員から恨まれる事自体に問題がありますし、経営者が暖簾の上に胡座を掻いて、放漫な経営をした結果であり、社員も不幸にしていると感じました。

 実は今回、渡米する直前に美々卯の本町店で、湯木夫妻と偶然に出会いました。向かい側で食事をする姿勢を見て、当初はよく似た別人と思いましたが、帰り際で、夫妻から声をかけられて、湯木夫妻であることが確認できました。料理店を経営する方の食べ方ではなかったので、残念に感じました。

                   再度の船場吉兆騒動を受けて (2008年5月13日)

  たかだか小さな料亭が、少しずつ大きくなり、日本を代表する料亭になりました。創業は昭和5年ですからその歴史は料亭としては浅いものです。

船場吉兆へは5月7日と8日に行きました。7日に行くと5人のTV朝日のカメラマンに取材を受けました。インタビューに対して「美味しかった!」言いましたが、その内容はTVに放映されませんでした。また、8日には30人程度から取材を受けましたが、結局、放映されませんでした。その時に、「不味かった・・・」と答えれば、放映されたと思います。マスコミというのは面白く悪く言えば、採りあげますが、その反対のことは取り上げません。

          (騒動の翌日には、女将から詫び状が届きました)

 料亭や企業に共通することですが、その規模が小さい間は利益優先の経営を行い、その結果、内部管理を怠ることになります。とくに、料亭では経営者と板前のコミュニケーション不足も多々あります。大和屋を含めて関西の大料亭が次々と廃業となるかで関西唯一の老舗料亭としての驕りもあったかも知れませんが、おおらかな大阪人としては、もう一度だけ許したいと思っております。


 

     チベット暴動で問われる中国の姿勢 (2008年3月20日)

中国・甘粛省甘南チベット族自治州では、ダライ・ラマ14世がラサを脱出して30周年にあたる1989年3月以来の大規模動乱が発生しました。89年当時の死傷者は約2000人と聞いておりますが、今回の動乱を含めて共通することは、中国政府が戦車を含めた武力で鎮圧を試みたことです。軍事力による制圧は多くの死傷者と政府への更なる憎しみしか生み出しませんので、軍服族ではなく私服族の役人による無血の対応が何故できないのか残念でなりません。中国政府は報道規制を強化して海外への情報漏えいを防いでおりますが、危険を省みないフリーのジャーナリストが数多く存在することを考慮すれば、今回の惨事の実体も除々に世界各国に伝わると思います。

私が日光堂の社長時代、中国の現地法人でも多くの中国人を雇用しておりました。中国の歴史について質問をしても返事をしなかった社員に対して「自国の歴史も知らないのか?」と問い質したところ「私は中国人ではない(漢民族ではない)ので知る必要がない」との返事が返ってきたことを思い出しました。漢民族が多数を占める中国では、チベット以外にも55以上の少数民族が居住しており、約1,000万人以上と言われる大量虐殺を行った文化大革命以来、これら民族の政府への批判的姿勢が根強く残っております。中国政府による民族弾圧が今後も継続すれば世界からの非難を一段と浴びることになると思います。
  


 

          疑問を感じるマスコミの報道姿勢(2008年2月12日)

   営業再開後の船場吉兆が連日満員となっております。府外からの旅行者が店舗前で記念写真を撮るためだけに訪れるなど現在では大阪の観光名所になっておりますが、今日に至るまでには紆余曲折がありました。

 湯木佐知子社長の就任時には、「女将(おかみ)が社長になるのは、おかしい」と発言した女性がおりましたが、その女性は、心斎橋OPAで店員をしていたアルバイトであり、吉兆の事情をどれだけ理解して発言したかには、背後の労働組合の存在からも疑問を感じております。元来、料亭や温泉旅館は家業であり、その多くが、お店の事情を熟知している女将が社長を努めてきたからです。企業と家業の違いを理解しなければなりません。

 営業再開当初もマスコミの取材が絶えない状態でしたが、女将は、カメラマンなど取材陣にお茶を出すなど細心の気配りをしました。来店客からも「美味しかった!」の言葉しか返ってこなかったことから、取材に来なくなったとのことです。改めて感じることは、マスコミは人の不幸を餌にしていることです。テレビやラジオ、新聞などから流れる情報だけで判断してはならないと感じます。


               ロンドンからの話     (2008年2月12日)

 石油の値段が90ドル前後で推移しておりますが、市場の投機筋が加わっているためこの値段は長く続かないとのことです。ブッシュ大統領の顧問を務めているアルバート博士が言っておりますが、USAの石油専門家(評論家)は、このままいけば、1バレル200$〜250$になると予測しております。更なる原油高を避けるためには、自動車についても、現在普及が急がれている水素やハイブリット車ではなく、原子力の自動車を使う位の技術革新が急ではないかと思われます。


    落ちてくるナイフ   (2007年11月21日)

 サブプライム問題により国内外の株式市場は波乱の状況が続いております。外資系の寄り付き前の注文動向でも数千万株超の売り超しとなっており、国内の個人投資家の多くは暗い雰囲気になっているのではと感じております。個別でみれば利回りだけでバーゲンセールとなっておりますが、目先の反発局面でも安心して買えない心理になっているのではないでしょうか。

 その様な状況下、19日には英国系ファンドの会長と再度合う機会がありました。会長の話によれば「落ちてくるナイフは拾うな、落ちた後で拾いたい」とのことでした。落ちてくる(落下中の)ナイフを拾うと怪我をしますが、床に落ちてからだと怪我はしない、との意味ですが、この言葉の真意を問いただして見たところ「米国ではシテイとメリルの損失が表面化していますが、欧州の金融機関の損失はまだ表面化しておりません。ウミを全て出してからが本当の買い場になります」とのことでした。目先的には、リバウンドがあるかも知れませんが、会長のお話ですとまだ早いとの感触でした。過去の経済危機でも一番暗い時が絶好の買い場となりましたが、今回も陰の極みを見極めたいところです。


アラビックの唯一の楽園(2007年9月9日)

     8月3日から10日間、マレーシアのペナン島に行ってきました。御存知の通りアジアではマレーシアとインドネシアの2国がイスラム圏ですが、ガルーダ・インドネシア航空がイスラム圏への航路を絶っていることから、イスラム諸国から行けるアジアの唯一のリゾート地はマレーシアだけになっております。

   毎年、8月と9月はイスラム教徒の休暇月となっており、私が宿泊したホテルでは約1000人中の80パーセントがイスラム教徒で、サウジアラビア、クェート、イラン、イラク、リビア、カタール、UAEの宿泊客がダントツとなっておりました。

  彼らにとって唯一のリゾート地がマレーシアですが、HOTELのマレーシア人に「怖くないのですか?」と聞いたところ「我がリゾート地に訪れるイスラム諸国の方々の多くは、富裕層の方々です。テロを行うような貧困層の方は来ませんヨ」との返事でした。


 

                      川内康範と森進一の確執  (2007年7月14日)

 解決の糸口が未だ見える気配がない「おふくろさん騒動」について少しながらコメントしたいと思います。

 川内康範と森進一の確執は今に始まった話ではありません。35年前に川内康範は大阪・ロイヤルホテルにおいてTV局に対して「森進一をTVに出すな!」とコメントしており、その後、3年間、森進一はTV界から追放されておりました。

 理由は解りませんが、以前から川内康範は森進一を嫌っていた訳ですが、私が受けた森進一の印象は、かなり違っております。

 「じゃがいもの会」の前日の舞台を見てください、との以来が私にあった時のことです。最前列に椅子と水を置いて頂きましたが、私は1時間30分も遅れてしまいました。でも彼は待っていました。律儀な彼に対して何と無愛想なことをした、と反省したことを覚えております。

   川内康範と森進一は最後まで和解しないと思います。


 スーパーブランド「BMB」誕生のエピソード  (2007年6月28日) 

                「モーツアルト、ベートベン、バッハ」
 

 USEN(4842)が株式公開買い付け(TOB)によりBMB(9841)を完全子会社化すると発表しました。TOB後に所定の手続きを経てBMBは上場廃止となります。BMBは社名である共に現在では誰もが知るカラオケのブランドとして認知されております。 

  このBMBの名前は40年前に私が考えたブランドです。当時、沖縄の総代理店である(有)高倉商事の仲尾善勝社長との商談の為に社長室で30分程度待っておりました。待ち時間の間に社長室の書棚の中から音楽関係の本を見ておりました。 

 そこには世界の3大作曲家であるモーツアルト、ベートベン、バッハが並んでおりました。カラオケのブランド名を考えていた私は、この3大作曲家の頭文字を利用したいと考えたのです。子供の頃からの憧れだった自動車のBMWのイメージからモーツアルトの「M」を中心に据えたいとの思いがあったことから、ベートベンの「B」とバッハの「B」を左右に据えました。商標登録できるとは当時思っておりませんでしたが、それが偶然からか登録できた喜びを覚えております。


 その後、韓国、台湾、香港、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ベトナムと40年間の間に世界各国でカラオケのスーパーブランドとして認知されるようになりました。USENの完全子会社となっても「BMB」のブランドは今後も残ると思います。

 因みに当時からカタカナの社名は流行しておりましたが、私が社長時代には「日光堂」の社名は変えませんでした。社名はシンプルなものの方が誰もの心に残るものです。


  「日光堂」の社名については、14歳〜15歳の頃から好きだったジャズが、命名のキッカケになりました。20歳前後の頃によく深夜のジャズセッションに行きました。1時から始まり終了時刻となる朝の5時〜6時には、いつも「Softry as Morning Sun Lise」の曲で演奏が終了しました。日本語訳で「朝の如くさわやかに」が「日光堂」の社名の源流になっております。

  中国語圏(台湾、香港、シンガポール、マレーシア)ではカラオケを可楽OKの名前で親しまれておりますが、日光堂の「日光」は中国では電灯の大手企業が社名に使用していたことから、ニッコウに近い発音と現地語での挨拶の意味を含めて「你歌」として商標登録しました。
 

  この「日光堂」の社名について米国で毎年開催されるCE(Consumer Electronics)ショーで100の米国人にアンケートしたところ「日光堂」のままで良いとの意見が多くを占めました。理由は任天堂や資生堂を筆頭に昔ながらの日本の社名が米国人に浸透していたため、「日光堂」の社名も違和感なく受け入れらるとの話でした。


小錦(相撲)級の肥満が増える米国 (2007年6月18日)

6月8日から一週間、久しぶりにカリフォルニア州とネバタ州に行ってきました。

 因みに1年6カ月ぶりの渡米になりました。統計学ではなく自分の見た感じですと、やたらと肥満体型の人が多くなったということです。カップルの場合では、男性が肥満の場合は女性も99%が肥満ですが、それは、おそらく食べ過ぎなど日常の食生活に関係があるのではないかと思われます。

 ラスベガスのMGMホテル内にある寿司店「SHIBUYA」で夕食を取ったときのことです。日本食の高級店とあって寿司コースが125US$+TAX7%が夕食の場合はTip20%増しですので、現在のレートで換算しますと日本円で2万円近くにもなります。そんな高価な寿司店でもダイエット意識の高いアメリカ人が来店、店舗を見渡すと70%程度が肥満体質と街で歩いているアメリカ人に比べて若干、肥満の人は少ない印象を受けました。

 そして、隣に座っている外人の食事を見て新たな驚きを感じました。味噌汁を始めに飲んでから寿司を食べ、その後に焼肉のにぎりを食べているからです。寿司と焼肉を一緒に食事する日本人はおりませんし味噌汁を始めに飲む習慣も日本人にはありません。食文化の違いを見て今後も益々、アメリカでは肥満体質の国民が増えるだろうと感じました。階段を20〜30段登れない若者も増えているそうですので、運動が出来ない国民は一段と自動車を使用、ガソリンの消費も減ることはないでしょう。

 肥満体質の国民が増える一方でウィンブルドンの女性選手を含めてタトゥー(刺青)を入れた人も目立つようになりました。特に東洋の漢字を入れたものが多くなりました。おそらくアメリカ人は漢字の意味も理解していないと思います。まるで中国語のTシャツを着ているみたいです。一度、タトゥーを入れると麻薬の様に体の中に次々と入れるようになることはK-1の選手を見てもわかります。体中までファッションに包まれる状況にも先行きの不安を感じました。

 スターバックスのコーヒーの値段を見て改めて日本の円が世界一弱いと感じました。

 米国 S−3.95ドル(484円) M−4.25ドル(521円) L−4.65ドル(570円)

 日本 S−280円       T―330円 G―380円  V−430円            

 

なぜ世界才最弱の通貨になったのか? 1US$で121円(6月14日現在)で、ユーロやポンドに対しては162円台、資源国通貨(オーストラリア、南アフリカ、カナダ)の通貨に比べても円安が進んでおります。これは円キャリートレードの問題だけではないと思います。今年の冬にはオーストラリア人が北海道のニセコに別荘を買うニュースが一段と話題になるでしょう。1985年〜1990年代前半とは立場が逆になりました。この夏、海外旅行をする人は高くなったと肌で感じるだろう。まさに地球のグローバル化に乗り遅れた感じがします。

 ラスベガスではイスラム系のアラジンホテルがHoolywood Hotelに名を変えました。ラスベガスではイスラム教徒は歩かなくなりました。イラク戦争のおかげでイスラム系ホテルは売却して名を変えなければ生きていけなくなりました。観光で東洋人もイスラム系程ではありませんが見かけなくなりました。香港のマカオに巨大な歓楽街ができましたので、そちらに観光客が流れております。日本の孤立化が進んでいると感じておりますが、いつになったら日本にも巨大エンターテイメントが、沖縄、別府、熱海に出来るか楽しみです。

 


 グラミン銀行に感じる事       (2007年4月25日)

  4月14日のブログでは、世界ナンバーワンの銀行であるシティグループのお話をいたしましたが、全く異なる視点でのナバーワンと評価したい銀行は、2006年のノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏が総裁を勤めるグラミン銀行です。グラミン銀行は貧困層を対象とした小額無担保融資(マイクロ・クレジット)を世界で初めて実施、ムハマド氏は農民から担保を取らずに生活に必要なだけの小額を融資すると同時に間違い無く返済ができるように農民を手助けできるシステムも構築しました。

グラミン銀行により、多くの家庭が「貧困ライン」を上回ると共に融資額の98%は返済されています。グラミン銀行の取組みに銀行本来の存在意義を感じ得ました。
  


 日本の銀行で一番良いのは?   (2007年4月14日)

          @新生銀行

          Aあおぞら銀行

          B東京スター銀行

  4月6日(金)に世界を代表する英国系金融アナリストの会長に話しを得る機会がありました。 世界経済の現状と今後の動向について意見をお聞きする中で、先に日興コーディアル証券への支援を打ち出すことで、日本に本格進出を果たすことになった米国・シティバンクの話題に移りました。

 シティバンクは世界1位の銀行で、2位にはバンクオブアメリカ、3位にはHSBC(香港上海銀行)が存在しますが、現状ではシティの世界ナンバーワンの地位は揺ぎ無いと思われます。

そんな状況下にあるシティは、4月14日の日経新聞で、1万7000人の人員を削減、大規模なリストラを進めることで21億ドルの経費削減を見込む、と報じられました。世界トップの地位に甘んじることなく、収益力の向上とコスト削減を目指す企業努力は、日本の銀行では、考えられないことです。バブル崩壊以降、多くの業界で旧来型の経営をしている企業群が崩壊、大幅なリストラやM&Aなどにより、企業の経営体質は日本でも大きく変化を遂げておりますが、その中において、メーカーは一流(1ドル―100円)、金融は二流(1ドル―200円)、政治は三流(1ドル―300円)という表現が判り易いと思います。

その様な中で、いわゆる二流である金融業界では、銀行に関してもメガバンク3行に集約されるなど再編が進展しましたが、単に規模の拡大を図っただけであり、他の業界に比べて古い体質が残ったままです。

日本の銀行にあって、金融アナリストが最も進化している銀行として挙げたのは、1位・新生銀行(旧日本長期信用銀行)、2位・あおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)、3位・東京スター銀行(旧東京相和銀行)の3行です。共通することは破綻や経営不振から不死鳥の如く蘇り、低金利の住宅ローンなど魅力的な商品を次々と投入、ピカイチの宣伝力を含めて親会社である外資系の経営手法を積極的に導入していることです。この3行がお手本となり、日本の銀行の旧態依然とした経営にメスが入るのを願っております。
 


「大大阪」〜大正から昭和初期を振り返る (2007年3月24日)

大正12年に関東大震災で首都圏が壊滅的な打撃を被った後、大阪市は大正14年から昭和7年までの7年間、東京市(現在の東京23区)を面積、人口ともに上回る、名実共に日本一の都市となったときがありました。この時期には、摂政時代を含めて、昭和天皇は3度続けて大阪を訪問、御堂筋や地下鉄などの都市計画事業が積極的に推進され商業や工業も急速に発展、「大大阪」と呼ばれ、活気に満ち溢れておりました。一方、現在では大阪の老舗企業は続々と本社機能を首都圏へ移転、自治体も自ら犯した不正の始末に苦心し、魅力ある街づくりは、後回しになっております。災害は何時、何時に訪れるか解りません。急速に進む一極集中の弊害を解消する意味でも、大阪が再び活気ある街に復活することを切望します。


 

    ベトナム再訪〜月刊「BOSS」2007年1月号掲載 (2006年11月23日)

 今秋に関西の経済人の皆様方とホーチミン市へベトナム経済視察に行ってきました。私自身、1994年以来、約12年ぶり、2回目の来越でした。1994年当時、飛行機のアクセスは日本発、台北発、香港発も無く、クアラルンプールとシンガポール経由でしか行くことが出来ず、飛行機自体もソ連製軍用機の改造機でした。現在のボーイング製旅客機の様に乗客と荷物室のセパレーツも無いことから荷物も自分で運び、自分の手元に置きました。目的はもちろんカラオケ機販売ビジネスです。共産党役員の税関員に約2時間待たされホーチミン市の狭い部屋のHOTELに宿泊したのを思いだしました。

今回は現状のベトナム経済における良い話と悪い話の両方を聞く為に日本領事館、JETRO、ホーチミン証券取引所、ベトナム工業団地、ビナミルク(今年上場した食品メーカー)、アメリカ・シリコンバレーのGLOBAL SYBERSOFT、三洋電機、住友商事等を訪問しました。街全体は1992年の中国・上海の様な活気に満ちた街並み、14年前の上海・南京東路を思い浮かべました。
ベトナムは地下鉄が無いなど鉄道や道路などインフラの整備が未だ不十分であるうえ、接客等、マナーの悪さは共産主義の悪い伝統を未だに継続しており、中国同様、DVDなどコピー商品の氾濫を含めて多くの課題を有しておりますが、ベトナム経済が今後、急速な発展を目指すうえで期待できる要因も数多く感じ取れました。
 

(ベトナムの作曲家・Trinh Cong Son 氏と)

ホーチミン証券取引所はトラン・ダック・シン理事長によりますと時価総額は2010年までに現在の8倍になると試算しておりますし、40歳以下が全国民の80%と若い人材が数多く存在、今年にはAPECがハノイ市で開催され、今年内にはW・T・O(世界貿易機関)にも加盟し、世界からも大きな注目を集めております。現在、日本企業の多くが中国へ進出しておりますが、隣国である北朝鮮の存在(難民流入リスクなど)など地政学リスクを考慮しますと、チャイナプラス1として分散する必要が高まると思います。ベトナムは原油産出国でもありますが、加工する人材が不足、基礎産業の育成が急務となるなかでは、これからは人材派遣や日本語を教育する学園ビジネスのニーズが高まると思います。メリルリンチの最近のレポートでも「ベトナムは今後、10年間の中でアジアで最も高い成長を続ける国である」と指摘しております。読売新聞の「アジア7カ国世論調査」で「日本との関係が良い」「どちらかといえば良い」と答えた国民はインドネシアとタイが96%、ベトナム92%、マレーシア91%、インド89%となっております。メディアの歪んだ報道により、これら東南アジア諸国は、歴史問題などで関係悪化を懸念する中国、韓国、北朝鮮と混同したイメージを多くの日本人が持っておりますが、親日家の多いベトナムを始めとするこれら国々に関心を持つ企業が増えていくと思われます。戦争では中国とアメリカに打ち勝ちました。今後の経済発展でもベトナムの底力に期待したくなりました。



  ベトナムに心安らぐ  (2006年10月26日更新)

  1021日、ベトナムのウェン・ダン・ズン新首相が大阪を訪問、リーガロイヤルホテルで約500名の方々を集めて日越シンポジュームが開催されました。

ズン首相はベトナム南部の出身で1949年生まれですが、見た感じは大変若々しく50歳前後でした。講演後の質疑応答では日本の政治家のように官僚の書いたメモも見ず、ストレートかつ明確に答え、共産党員にも係わらず、他の大臣にもバランスよく質問に答えさせる機会を与えるなど、民主的にスムーズにすすめる姿には大変敬服しました。また、会場に集まった約100人のベトナム人の親日的な態度には好感を持ちました。

アジアには中国・北朝鮮・韓国という日本を嫌う3カ国以外に親日的な国があることを知り、心が安らぎました。


ジム・ロジャースの講演会で感じた事 (2006年9月5日更新)

 9月3日に大阪のホテル・ニューオータニでジム・ロジャースの講演会に出席しました。私は最前列のVIP席に座りましたが、沖縄から北海道までインターネットから8000名が応募、当日は500名の会場に抽選でばれた600名が入場、その内訳は男子65%、女子35%で平均年齢は35歳、立ち見が入る大変な出席者となりました。ジム・ロジャースは、ウォレン・バフェット、ジョージ・ソロスと肩を並べる3大投資家で、1942年に誕生、現在は64歳で、3歳の子供がおり、富を求めて世界中を回っております。講演当日の彼は目の回りが黒く、体重も20kgはオーバーウェイトで頬も二重顎であり、アメリカの中年男性にしては、老けている印象を持ちました。大阪講演後もすぐに、スイス・チューリッヒに行くとのことで、繁忙を極める状況は、私の社長時代と重なる部分もある、と感じたりしておりました。

 講演では、石油、金(コモディティー)商品が今後、世界中の株式よりも有望との話をしておりました。また、未来の通貨では、ドルが下落、上昇する通貨は中国元、シンガポールドル、オーストラリアドル、ニュージーランドドル、スイスフラン、スェーデンクローネ、カナダドル、UKポンド等との話でした。60数年続いたアメリカドルの基軸通貨はいつまで続くのでしょうか? また、1015年の中期で考えるとユーロもどうなるのでしょうか?つたない私自身の通貨の考え方と同じでしたが、中国元に関しては私自身、疑問に感じております。更に、国(Country)に関しては戦争後のイラク(但し戦争後、落着いた時点での話しです)とイラン、ベトナムなどが良くなるとのことでした。


 

世界のカラオケ1号機〜スタンレー・ホーとの出会い (2006年7月22日更新)

北朝鮮による偽ドル札製造への懲罰として米国通貨当局は北朝鮮の金庫番の役割を果たしてきた、マカオの銀行「バンコ・デルタ・アジア」のドル口座を封じ込めました。中国政府の主権下にある金融機関をドル流通に関して縛り上げてしまった訳です。
  「バンコ・デルタ・アジア」のオーナーは、マカオにある東洋一のカジノやリスボアHOTELも経営している香港在住のスタンレー・ホー氏であります。世界のフォーブス誌で毎年、富豪家のトップ10に入っていたスタンレー・ホー氏と初めて出会ったのは沖縄返還(1972年)の一年後の事と記憶しております。 当時、香港で一番高いビルディングの最上階に彼の部屋がありました。当初、スタンレー・ホー氏に会うまでは彼が香港在中の中国人と思っていましたが、現れた人物は1メートル85センチ程度の金髪の白人男性でした。彼は、九龍半島が英国の植民地時代に九龍の州長と英国貴族の娘との間に生まれたハーフであり、いわば政略結婚で誕生した生い立ちを知って、日本の戦国時代と重なる英国の植民地政策を考えさせられたのを覚えております。スタンレー・ホー氏のH・Kネイザン通リのホテルに2泊後、リスボアHOTELにスティしました。1973年、リスボアHOTEL内にある日本料理店の中に販売した8トラカラオケ機が東南アジア(台湾)を除く世界的なカラオケ1号機でした。

更にスタンレー・ホーと共に忘れてならないのが、当時の大平首相より、沖縄の牛と言われた高倉幸次郎です。高倉氏は1967年の香港動乱の時に、スタンレー・ホー氏の金を日本、米国、英国に分散したフィクサーです。スタンレー・ホー氏は小佐野賢治より高倉氏を信用しておりました。沖縄が日本に返還された後、不要になった約2000台の沖縄の左ハンドルバスを共産党を通じて中国全土に売り込みもしておりました。  


   ミスター ビル・エモットの先見性 (2006年7月5日更新)

今年の年賀の挨拶に
U・K
『エコノミスト編集長』 誌編集長 ミスター ビル・エモット
1990年の著書
日はまた沈む The Sun Also Set から15年後の2005年には、 日はまた昇る The Sun Also Rises と言いました。
私は2006年の年頭の挨拶に引用させて頂きました。
2006年2月8日に、このような書籍が日本で発売になったことで、私も大変驚きました。
又、書籍のP44には元官僚だった村上世彰氏や日銀総裁の福井俊彦氏のことなどが記載されております。
ビル・エモット氏の先見性には、目の見張るものがあります。
今後、日本の生きる道は世界ナンバーワンの製造業国になり、悪名高い敵対的買収から企業の社会的責任と信用を守っていかねばなりません。
又、日本も、エンロン事件を契機にアメリカ企業法(サーベインスオクスリー法)が改正された様に、金融商品取引法が改正され、健全な市場に向かうと信じております。 

P44 引用     ビル・エモット著 「日はまた昇る」( 出版:草思社)より

たとえばM&Aコンサルティングには3人のパートナーがいるが、2人は元官僚(通産官僚だった村上世彰氏と、警視庁にいた滝沢健也氏)で、3人目(丸木 強氏)は野村證券出身である。このファンドに早くから投資し、重要な取り持ち役を果たしたのは、当時は富士通総研の理事長でその後、日銀総裁になった福井俊彦氏だった。

   


        ジュ−クボックスがカラオケに取って替わった頃 (2005年12月28日更新)

 昭和33年、音楽好きがこうじて大学を中退した私は大阪の生野で日光堂というレコ−ド店をひらいたのです。
娯楽といえば映画か音楽くらいの時代でしたし、真面目に商売に取り組んだ甲斐あって店は繁盛し、いつしか店の数も五店ほどになりました。ところが、その頃からカセットテ−プが普及してきました。 テ−プというのはコピ−が簡単にできます。 レコ−ドや音楽テ−プを売りながら「もしかしたら、そのうちレコ−ドは売れなくなるんじゃないか」という漠然とした不安を抱えていたある日、飲み屋で流しのギタ−の伴奏で酔客が楽しそうに歌っているのを目にしたのです。 瞬間、「これだ」と思ったものです。
 レコ−ド店では楽器も扱っていましたし、当時はベンチャ−ズの大ヒットでエレキギタ−が
大いに売れた時代です。 そんなことからアンプも扱っていましたので、エンドレス方式の
八トラックのカセットテ−プとアンプを組み合わせたカラオケの装置をつくるのは、そんなに
難しいことではありませんでした。 選曲もレコ−ド店ですからお手のもの、クラブなどで演奏していたミュ−ジシャンを八人ほど集めて録音したのですが、何しろ即席のバンドだけに音が合わず苦労したのを覚えています。 昭和39年のことでした。
 当時、私はジュ−クボックスが置いてあるお店に新曲のレコ−ドを納める仕事も手掛けて
いましたので、試しに作った30台をさっそく「これからは聴く時代から歌う時代ですよ」とジュ−クボックスの業者に持ち込んだところ、一台二十万円ほどでしたが、この30台全部
が一日で売れてしまったのです。 正直いってこれには驚きました。
 次は50台ほど作りましたが、これもすぐに売り切れ、なかにはわずか40日で二十万円の
装置代を償却してしまったお店もあったほどです。 これほど人々が歌うことに飢えていた
とは思いませんでした。こうなったらもう躊躇することはありません。 レコ−ド店五店を全部処分して、その資金を元手にカラオケ一本に絞ったのです。
 その後、会社はカラオケブ−ムにのって急成長、平成元年には株式を店頭公開、一時は
店頭市場で額面五十円で株価が二万円を超えたのは、野村證券系のベンチャ−キャピタルとして知られる日本合同ファイナンス(現ジャフコ)と北海道拓殖銀行の倒産で話題となった、カブトデコム、そして日光堂の三社だけといわれるほどでした。
 その後のカラオケの進歩はご存じの通りですが、その余りの進歩の速さに私自身が
ついていけず、「このままでは社長として誤った決断をしてしまうかもしれない」と、10年ほど前に引退しましたが、まさにその通り、最近はインタ−ネットで曲のやり取りをし、それを@Podとかいう携帯プレイヤ−で聴くなど、もう私の理解を超えています。
 会社はいまベ−ト−ベン、モ−ツァルト、バッハから頭文字をとったBMBとなって
ジャスダックに上場していますが、いま振り返ってみると、カラオケ発明者の井上大佑氏や
私のほかにも、カラオケ装置を発明した人が何人かおられたようです。
 そのカラオケはいまや日本発の代表的な世界文化として広く普及していますが、こういった同時多発的に誕生したものだからこそ、広く世界に普及したのだと思っています。
(経済誌 月刊BOSS 2月号 随想掲載)


                        誰が日本一の歌謡曲歌手ですか (2005年12月15日更新)

 日本一の歌謡曲歌手は誰ですかという質問には美空ひばりだと言う人が多いと予想しますし、五木ひろしとか天童よしみと言う人もいることでしょう。
 しかし、私は『リンゴの唄』を歌ったコロンビア・レコ−ドの並木路子だと思います。日本一というからには、人間としても尊敬できる人物でなければと思うからです。
 阪神大震災の直後、私は彼女と一緒に被災地の慰問所を回りました。彼女は「スポットライトを浴びる歌手がボランティアをするのは海外では当然です」と言われ、積極的に被災者の方々と話され、また耳の不自由な方とは極自然に手話で話されていました。
 最初の夜、日本一の大歌手の為に用意した神戸のホテル・オ−クラのスイ−トル−ムに
案内すると、「老人に立派な部屋は不要です。オ−クラで一番安いシングルル−ムで結構です。」と言われました。 被災者の心情を慮ったことも多少あったかもしれませんが、自然な物言い、振舞いに深い感銘を受けました。
 当時 彼女は70歳を超えていたにもかかわらず、SDKで踊ったり、歌ったりしていた17歳の頃と同じキィ−で歌っておられました。
 そして、「ひとつでも高音域を下げると歌手として歌うことはやめます」ときっぱり言われました。
 その『リンゴの唄』ですが、松竹映画が昭和20年8月の敗戦の翌日から作り始めた戦後最初の映画『そよかぜ』の挿入歌なのです。『そよかぜ』を見たマッカ−サ−が『スタ−誕生』と叫んだと聞いております。
 清々しく凛とした美声は復興を目指す人々の心に希望の光を燈し、58万枚の大ヒット
になりました。
 当時の彼女は今で言えばマイケルジャクソンのような存在で、終戦直後の状況を考えると、私は現在なら1,000万枚売れても不思議ではないように思います。
 ただひとつ残念なことは、『リンゴの唄』が余りにも大ヒットであったが故にその後の曲に恵まれなかったことです。
 皆様のお考えになる日本一の歌謡曲歌手はどなたでしょうか。当ホ−ムペ−ジの「お問い合せ」でご意見をお待ちしております。


                     次代の経営者へ (2005年12月13日更新)

もう半世紀も前のことです。私は大阪市内の高校生でした。当時、テレビ放送は始まっていましたが、まだそれほど普及はしていなくて娯楽の中心は、ラジオや映画、そして野球等でした。 
 同級生に場末の三流映画館主の息子がいて、無料で映画が見れるのがなによりの楽しみでした。ユニバ−サル映画の「グレンミラ−物語」を見たのは高校3年の夏と記憶しておりますが、夏休みの間にとうとう16回も見てしまいました。私が、短期間に何回ともなく見たのは妻ヘレンとのラブ・ロマンスや、音楽家としての名声を博しながらも、突然の飛行機事故で亡くなるというスト−リーが、多感な高校生の私に人間・人生の素晴らしさや、無常さに感銘を受けたことにもあります。しかし、私が見飽きる事も無く16回も見たのは、グレンミラ−のトロンボ−ン奏者としての素敵な演奏ではなく、編曲家としての優れた才能に敬服したからであります。特に、古い歌を編曲により新しいスタイルの音楽になることを発見しました。例えば、ペンシルベニア地方の民謡を編曲した「茶色の小瓶」です。私は、この「グレンミラ−物語」を通して何事であれ、変えていくことが大切であることを学んだと思います。音楽でいえば、このグレンミラ−の編曲やジャズでいえば「King Of Jazz」と言われるルイ・ア−ムストロングのアドリブ的な演奏であり、日本の歴史では旧体制を変革しようとした織田信長や土佐勤皇党、そして現在の小泉首相の改革であると思います。 
 音楽業界に身を置いている人間として、音楽界に少しでも貢献したいと考え、1991年7月に英国のロンドン交響楽団(LSO)のサマ−ポップスを一週間後援したことがありました。当楽団は英国ロイヤルファミリ−が経営する世界で最も格式の高いオーケストラです。その後、ロンドンである日本の証券会社が後援したコンサ−トの時のことです。ハ−フタイムが終わり、寿司バ−での食事が終了すると、駐在していた日本人とその家族の殆どが後半の演奏を聞くことも無く帰ってしまい、余りの文化、教養のなさを感じました。また、ロンドン交響楽団が来日し、招待されて演奏会を聞いていた時、スポンサ−の某一部上場企業の社長が、交響楽団にハワイアンの曲をリクエストし、嫌な顔をしながらもそのリクエストを断られたということがありました。このふたつの場面に同席していた私は、日本人として文化(カルチャ−)の程度が低く、顔から火がでるような恥ずかしさを覚えました。 
 最近、経済界を見回すとハ−バ−ド、イエ−ル、スタンフォ−ド等のMBAを修得した頭脳優秀な若い世代が活躍しており、大変頼もしく思っているのですが、世の中、金がすべてといった拝金主義が横行しているように感じるのは私だけでしょうか。ソニ−元社長の大賀典雄氏は、音楽家としても著名ですが、ソニ−の退職金をもとに建設、軽井沢町に寄贈した音楽ホ−ルがこの春オープンしました。 
 儲かりさえすれば良しとする風潮の中、私は経済界から大賀氏に続く人々がどんどんでてくることを切望しております。

                                                                                                             

 


Kisaburo TAKAGI © 2005