その後、カラオケは日本の文化として定着していきますが、その過程で2度のうねりがあります。そのひとつがインベーダーゲームがブームとなった昭和54年です。
当時カラオケを扱っていた代理店がインベーダーゲームも取り扱っており、ブームと共に利益率が高いインベーダーゲームへシフト、一時的にはカラオケを売る人間
がいなくなるほどの状況にまで落ち込んでしまいました。前年の昭和53年には業界初の8曲入りカラオケテープを発売した時期であり日光堂自身もインベーダーゲー
ムに少しながら手を染めており、環境は大きく悪化していました。
高城喜三郎はインベーダーゲームのブームがあまりにも高いことから、自らゲームセンターなどへ出向き子供達に直接リサーチ、子供達に飽きがきていることがわか
ったことからブームの直っ只中に撤退を決意、その読みが的中することになります。7月の夏休みに入ると学校が禁止し、新聞も反対キャンペーンを展開、8月以降
には火が消えたようにブームが去りました。この決断に多くの代理店が脱帽し、信頼関係が一段と強まることになります。
もうひとつのうねりがカラオケ業界の技術革新です。
インベーダーブームが過ぎ去った頃、日本ビクター提唱のVHD(ビデオディスク)とパイオニアが提唱するLD(レーザーディスク)の2方式が並立、LDは技術
的に優位でしたが、低コストと松下電器の後押しもあり当初はVHDが普及していました。
しかしながら高城喜三郎はどちらにも付かず、日本マランツと共同でCDカラオケシステムを独自開発、その後、試行錯誤を繰り返しながら機を見てLDへ進出、日
光堂の採用とともにLDが急速に普及することになります。
(←当時カラオケ業界技術をリードしたLDカラオケ)