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「カラオケ」産みの親 高城喜三郎

(現在は誰もが楽しんでいる今日のカラオケ)
カラオケで歌う人々

店舗を構えた後も行商時代の経験を活かして、自転車で御用聞きを続ける中、昭和40年代から流行してきたジュークボックス業者を中心に大口の販売先を確保、 自転車からオートバイへ移動手段を変え、その後も熱心な営業を続ける中で大口の得意先は30件余りに増加、店舗も3店を構えるまでに成長しました。

(8トラックカラオケテープ:当時はテープ1つで4曲入りだった)
OLD TAPE これまでの苦労が開花しつつある状況ですが、それでも売れないレコードがあります。それを歌手のキャンペーンとして店頭で歌わせ、サイン入りで販売しました。 歌手は毎日仕事で歌うことから、声の調子が悪いときにはエコーをかけてくださいとの要望もあります。エコーをかければ、声域の幅が無い素人でも歌えるの ではないか、中音主体でガイドメロディーもつければニーズはある。思い立ったら高城喜三郎は直ぐに実行に移します。

キャバレーのバンドに依頼して当時流行していた「二人でお酒を」など数曲の伴奏を8トラックのテープに録音、既成のエコー装置と組み合わせて50台の装置を作 成しました。装置の完成とともに販売ルートの確保が急務となります。そこで高城喜三郎はジュークボックス業者を料理屋に集めて装置の導入を打診、翌朝には装 置の注文が50台規模で舞い込んできました。

(昭和54年に発売されたカラオケジューク KJ-576)
KJ-576 昭和50年当時は生バンドをバックに歌える酒場が人気を集めていましたが、曲のレパートリーが限られるうえ、設備費用などのコストも嵩み、店も導入にはリスク が付きまとっていました。カラオケという全く無かったものを普及させる苦労は並々ならぬものがありますが、店と顧客のニーズを察知し、歌を聴くものから歌う ものに変えた実績は高く評価したいところです。


Kisaburo TAKAGI © 2005