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「カラオケ」産みの親 高城喜三郎

(幼少時代の喜三郎、母と共に)
幼少時代 「カラオケ」は今や日本だけでなく世界的な共通言語として人々に定着しています。その産みの親が、一レコード店だった日光堂(現・BMB)をカラオケ 業界の雄にまで押し上げた高城喜三郎です。

高城喜三郎は昭和11年の7月5日に大阪の船場に生まれました。その年は2・26事件が起こり、翌年には日中戦争のキッカケとなった盧溝橋事件が勃発、 日本は戦争の荒波を進み、この大戦で喜三郎の父も命を無くし、戦後は母・竹代の女手ひとつで育ちました。

(前列右:喜三郎高校時代)
高校時代 中学・高校時代には勉強とともにサッカーや剣道に取り組み、大学は関西大学商学部に入学、ここで培ってきた経験とハングリー精神から商人の道を歩むこと を決意しました。中学時代に見た「グレン・ミラー物語」のスイングジャズに魅せられた高城喜三郎は、好きな音楽のあるところで働きたいと思い、レコード 店に勤務、そこで3年程度働いた後、独立を決意しました。

独立当初は資金力が無いことから、1台の自転車で行商を開始、婦人会や踊りの師匠、名曲喫茶やサー クルなどへレコードの御用聞きに回り、この行商で貯めた10万円を元手に信用組合から100万円を借り入れ、大阪市生野区の自宅を改造、レコード 店「日光堂」を26歳で構えるに至ります。


Kisaburo TAKAGI © 2005